8月12日−ルンチュンカモ・バンジャン(Lung Chung Kamo Banjyang) |
本来の峠、ルンチュンカモ・バンジャンは5393m 29 34 50N 83 08 42Eで クンコーラ左俣の出合
20 33 57N 83 08 55E 4642mのスンドアという。 ここに丸く石積カルカがあり、手前にも広河原と気持ちのいいグラスがあり、ニサルの人が牛とカシ(羊)の放牧テントがあった。早速シエルパがミルクを買った。1リツトルで200Rs、乾燥チーズも買った。ミルクは早速、温めて貰って呑む。異常にうまい。翌朝出合からサイドモレーン状になった急登の谷を北に進み、池から左岸沿いをどんどん右手へと登るとブルーポピーの群生、
このクンコーラはルンチュンカモ・バンジャンへの谷が本流のようで、左岸の 5470mと5485mの岩峰の左(西)を通って、丸池の横からなだらかな峠に立つ事が出来る。
私達は先に到達したクン・バンジャンからトラバースして5470mの右(東)側の広い草原に丸い池があり、峠から1時間半ほどの所の29 36 640−683N 83 08 363−410E 5320−5425mへ先にポーター達によってテントを設営させておいた。快適な草地にお花畑に小川が流れていた。奇怪な突起の岩峰5485mの下だった。(8/2ネパール側岩峰参照) このテントの正面には6024m峰が クン・B.とルンチュンカモ・B.の両峠に挟まれいる。 ムスタンのアルニコチュリー峰6034mには小さいながらも氷河や積雪があったのに、この西へ続くヒマールで初めての6000m峰には全く雪も氷河らしいものがない。北面の真っ青な無名湖の上部岩壁帯に後退した懸垂氷河みられる程度である。 峠のネパール側に丸い池 29 36 45N 83 07 40Eがあり、本来の峠より80m位上部の峠にテント場から1時間20分で着いた。朝からガスが出て小雪が舞い、午前中テントで寝転んでいた。このルンチュンカモ.Bの上の峠は、29 37 084−110 N 83 07 878−917E 5457−5558mのGPS数値である。地図上では29 37 05N 83 08 00E 5473mでケルンが一つ立っていて、 眼下に本来の峠が平らな岩の上に無造作にケルンが立っていた。 チベット側を降りると5分程で長方形800mの長さの池があり、その下流1500mの所に350mの長方形の池。更に4Km下ると瓢箪形の池があるが、ルンチュンカモ・コルサは狭いV字状のコーラで、コルから見えない二つ目の池辺りから右へ曲がる。 コルからは北東344度に6043mピークから北に延びる尾根の5833mの岩峰があり、谷床は見えず右からの6024mピークから真北に延びる尾根上の6027m岩峰から西に延びる出鼻状の尾根で、ここから北に向かう谷は完全に見えない。上の峠からでも全くチベツトの山並みは畝ってみえないので、本来の眼下の峠からでは全くチベットの山を見る事は出来ない。磁石を頼りにすれば北東に下るがゴロゴロした岩はなく、慧海師記述の最も重要な池の間隔が遠く過ぎるのだ。 この峠を記述通りなら越えていないだろう。 クン・バンジャンへの路を取ったと思われる。何故クン・バンジャンなのか? スエン・ヘデインのスケッチ 252 B. from Camp 193,Nangi,July 4. 1907年の S.5°E.にパチュンハム峰と左にKunglaが描かれ、マップ From Camp186 to Camp194 の252 C194 Nangi 10Km 170°にKunglaの標記がある。多分、 ひょっとしたら慧海師から知らされた越境峠を…・・?記したのかな? 1975年発行のの巻末地図 Carte 8 Army map service USAはShey、Namgung,Saldangを経て NyisalからKhung Laが最短越境コースである事が解る。シエーゴンパから直線 30Kmなのである。コマを通れば40Kmも東へ遠回りする事になる。ナムグンからでも2日もかかり、シーメンへ出人目を避けて、まだ8貫目の荷物を持って半日東のティンキューへ行くだろうか?ビジョールからウーゲン・ラを越えて、コマから'72年12月11日シーメンに降りた東京山旅倶楽部の桑畑茂氏からの資料写真でも、国境の山並みが入り乱れていて正確な地図がなければどの谷を通って峠がどれか?判断しにくいし、慧海師は頼りの目標の山を見出せない。左手(西)にどんどん離れて行くので、兼ねてから聞いていた目標の山であるダフエソイラ峰から離れて行く訳はない。'83年、吉永 定雄の描いたTorbo & Kaligandaki(東京山旅倶楽部報告書「ヒマラヤ TBV報告」 )は'61−'62 Indian Survy と'24−'26 Indian Survey と P.Aufschnaiter '63 を参考に描かれてあるが、我が総隊長を誉め過ぎるがかなり正確である。 ただこれら原図の国境周辺は曖昧さがあって、ロシアンマップ'74で修正する事が出来た。まだまだ正確な地図はあるにあるが、このロシアンマップがかなり見易い事は一番である。でも路の表示に正確さがない。どうも地図の話ばかりになるので 「おしまい」にする。 慧海師は磁石を最も頼りにしたので、ナムグン地方からは決して東へは行かないだろう。市販の本でこの付近山々がもっと解りやすいのはEric Valli and DianeSummersの写真集 Caravan of the Himalayaが最高に奇麗だ。ポクスンド湖の東BagaLaへの手前KimbuLa (South Sela Muchung?)から撮ったパルチュンハムガーヒマールからダフエ ソイラ峰、6043mと私達が登った6024m峰などのパノラマは素晴らしい写真だ。 シエーゴンパを周った?周らなかった?は別として、ナムグン地方、サルダンの 村に達した慧海師はダフエソイラ峰を目標にニサルに出てたろう。という事にしよう! 荷持ちと別れた7月1日の夜か2日昼頃にニサル着いた。3日にラプランペンジコーラ出合のスンドアか少し上流の池のカルカで泊。翌日の7月4日 ナムグン地方の人達が利用するクンバンジャンを越えたと思う。そう言う事にして。 瓢箪池から北西に下り、老婆のテントに泊まり息子と白巌窟に出かけ、そこから登りにかかり、灰色がかった巌窟に午後3時頃到着。ゲロン・リンポチエには遅くなって会えず、上の3つ目の窟で座禅するラマにカンリンポチエへの路の教えをこう。 さて慧海師の記述は………・。 「第十九回 入国の途上」 …・・深山老婆の親切。雪山下の假住居。犖牛に騎る。と続き…・ 喇嘛の巌窟を尋ねる積もりで段々西北の方へ向ツて半里許り昇ツて又半里許り降りそれから今度東方に見える山に進み掛けたです。所が霰が降出し……、濡れないやうに圍ツて路端に二時間許り休息して居ながら自分の目的地に達し得ら丶道筋抔を尋ねて大いに利益したです。其中に霰もやんだから又其犖牛に乗ツて出掛けると半里半程山を登りますと白い 岩窟が見えたです。ソレで私は白巌窟と名づけた。婆さんの息子が其白巌窟を指して彼處 がゲロン、リンボ、チエの居られる所であると示したです。それから段々上に昇ツて行きますと其白い窟の前に又一つ窟がある。これは白くない、少し灰色掛ツた岩であツて其窟 中はゲロン、リンポ、チエのお弟子が住んでいる、 ……・(略) 「第二十回 白巌窟の尊者」 巌窟の主人と云ふのは矢張喇嘛で其窟に座禅して居るんです。座禅していると云へば何に も為ない様で居るやうですが、サウでもない、随分日用品や佛具杯も澤山ある。其處には 炊事場も寢所の皆調へてある、 ……・・(略) もう慧海師のことはこのぐらいでオシマイにしよう。これからは山のことに……・。でも!シツコク、こだわって……・慧海師越境峠探索劇顛末を……・。 これも重要な事だけど、峠からのネパール側の記述。ここクン・バンジャンからは、残念ながらダウラギリの山々が見えない。天気が良ければカンジェロバの山々が遠くに見えたであろうけど……・。とても遠くに……・。ダウラギリと間違ったかな? 8000m級の山と6500m級では余りにも山が小さ過ぎるのだが……・。この季節、私達はずーっとダウラギリ方面はモンスーンの影響で、一度も全容の山姿を見せなかった。僅かにマリン(マユン)バンジャン、ヤナン(エナン)バンジャンで下部の雪線を望見出来たに過ぎない。 「第十七回 西蔵國境に入る」 西蔵国境無限の感想 ……・(略) 南の方を眺めますとドーラギリーの高雪峰が雲際高く虚空に聳えて居る、高山雪路の長旅苦しい中にも遥かに北を眺めて見ると西蔵高原の山々が波を打ツた如くに見えて居るです其間には蜿蜒たる河が幾筋か流れて居るという有様で御座りますが實に其景色を見た時には何となく愉快なる感に打たれて ……・(略) という事になると、このクンバンジャンも慧海師の記述には合わないかも知れない。 シンドおますがな! 慧海はん、あんたはんがどこの峠を越えたか!色々、事情があったのは解りますけど、越境の峠名を書かんかったのはアキまへん。没後半世紀になってまで人騒がせな事を…・・。でも騒いでいるのは根深氏だけかも知れません?!同行のTAKEなんか何――ンにも騒がず。 お利口さんしてて無関係を装いまして!慧海師の越境峠「どれかいな?」 そんな私等岳人?には関係ないもん。と言うし。私とて、ここや!この峠や!なんて決め付ける事は出来ませんでした。でも、ヤナン(エナン)バンジャンかクンバンジャンが匂うのだけど?????ドルポ国境周辺、6ケ峠越え報告もこれで最終のオシマイ。あやふやに完結とします……・。 そこで我家の会話: 「それで結論はシカジカ!カクカク?」 「ごちゃ!ごちゃ!言わんと、いったいどこやねん!」 「その慧海はんとやら越えた峠は?」 「知らんがな!」 「昔の坊さんが、どこ越えてもええんチャウん」 「アホ言うな!初めてネパールへ行った人で、チベットも行った偉い人やドー」 「それが、どうしたン?」「どこが偉いン」「ショーモない」 「そんな事調べに今夏はネパールまで行って、してたんかいな」 「そや!いや!チャウねん、国境の山と峠を調べに行ってテン」 「アホやなぁ!何回も馬から落ちて、そんなショーモない事やってたんかいな」 「馬から落ちたん、関係ないやン。死ぬとこやってンドー」 「またオーバーな!こと言うて」 「ホンデ!結局、解ったんかいナアー。慧海はん越えた峠とかは…・・?」 「解ったんやったらエエねんケドー、まだ解らへんねん」 「ホンならまた、行ったらエエやんか」 「フン!そうしようと思うねん」「お金出してなあー」 「アホ言わんといて……・」 「………!」 これが結末、 タイフーン家夫婦、子供達との生の会話であります。大阪人は恐いンでっせ。ヒツコイでっせ!とことんやりまっせ! |
Khung Kholaのスンドアの二股からモレーン状の岩がゴロゴロした所を登ると、この風景が飛び込んできた。湖と美しいグリーンの河原が続き、北に本流のルンチャンカモ・Bへの谷が見える。左岸の奥に広がるグリーンの台地の右の方へ進むのに、岩がゴロゴロしている中の路を歩き、クンバンジャンへと上がって行く。桑畑茂さんからの写真、コマからシーメンへの峠(ポンゾウ・ラ)からの写真の正面に、この2座が写っていたのですぐ解った。彼らの時は冬だったので山は真っ白であったのに、夏はこのように真っ黒な地膚が出ていてスニーカ靴で登れる6000mの山となる。ここは完全に自然もチベット高原なんです。(画像:1) |
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*でも、めっちゃ重たいので、時間かかります・・・。↓
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