8月16日 |
7月17日ポエ村で2名のガイドを雇用して、チョユコリンゴンパの前の広場を6時半に発つ。村と畑がどんどん眼下になり、背後の尾根に向かって進む。天気は良くないけれど先を急がねば、
すぐ雨になるだろう。チョルテンのあるコルに立ち、ソワチャコーラの一つ目の沢上流のガレ場をトラバースして、二つ目のチョルテンの峠へ2時間で到着。ガスがかかり出してここから尾根上を進む事になる。踏跡はまだしっかりしていて迷う事はない。
岩稜の所で、ソワチャコーラ左岸の尾根の向こうにヘコピークとパンザンコーラ沿いのクー村のグリーン色の畑が見えた。ランチはミルクティを作ってもらい、ツァンパをほうばる。 何時の間にか濃いガスは雨に変わり、岩稜から砂地の尾根路になり、尖がった二つの岩峰の小さなコルが、ソワチャコーラへの降り口のローチェと呼ばれる所だった。 29 33 860-899N 82 49 059-010E 高度5395-5429m 天気悪く、実際の高度は5100m少し上。インド62K/10 1:50000 ’67 地図ではトレイルが18200f(5547m)でなくなり、矢印の→の記号が沢筋にソワチャコーラに下っている。ロシアンマップは5486m 尾根上に6486,6482,5710mのヤララまで尾根にトレイルがあり、 ヤララからチャンデイコーラへは降りずに、左岸尾根をトラバースでカトポサナムコーラひとつ上流の沢を下るようになっているが、 完全な間違いで、ヤラ・ラは4Km東 20°Nの位置で、路もソワチャコーラ沿いになければならない。降り口から小1時間ほどで カールの底の河床(ダルトン)にテントと特大ブルーシートを張ったのは3時半で、一晩中激しく雨音がテントをたたく。 |
ポエ村対岸の峠ヤンブルから観た、ポエ村とヤラ・バンジャンへのトレイルルート。
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旧村跡の家は、天井の丸太が完全に朽ち果てて、どの家も壁だけが残っていた。川喜多隊の西岡アムジーは、どの家で嫁さんあげる?と言われたのかな? | 現在村人が住んでいる家屋です。 ’72年富森毅さんの記録では、この村からヤラ・ラへの路はポーターが集まらなかった。とある。その頃と人口は・・・?もし、この写真を見られたら、思い出される事でしょう。 村人は誰も日本人の事を覚えていなかった。 富森さんで27年も前の事。西岡アムジーさんは41年前。 それから誰か日本人が訪れた人がいるか解らなかった。 こんな辺鄙な所へ・・・・・。 |
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以上の46人が現在住んでいる。 他に3人の若者がインドへ出稼ぎに出ていて、カトマンズに5名が住んでいる。 リンチエン・サンポ(39歳)タメールのエージェントでガイドの仕事に就いている。嫁と子供2名に母親が同居。 ポエ村は畑の北側に昔はあったが、現在はその奥(西)側に集合住宅を形成していて、冬季もここに留まっているとの事だった。 *(二男)ニンマ・ラマ君をガイド兼ポーターとして雇用。この家族構成は彼の説明によるもので、 カタカナ発音氏名は正確さに欠ける。 彼の妹と他4名の女の子が喉頭腫であったので、薬を持ち帰らせるためにカトマンズへ連れて帰る。 彼女達は全く屈託なく笑顔で私達と接したけれど、家族の人達は何とかならないか?薬は ある?と聞いた。 ニンマ君にお前がKTMへ行って薬を持ち帰らねば…。 薬については、コスモトレックのジョシ氏と住吉Dr.が検討した。 僅か何万ルピーで購入する事が出来た。ニンマ君はラマの修行でKTMに7年住んでいた事がある。 帰路はドナイ空港まで空路を取らせ、ポエまで歩くと全行程、1週間で帰へれると言って、その役をかってくれた。 心の優しい、素敵な男であった。 26歳、以前1度チャンデイコーラへ行った事がある。 またポエにぜひ来て下さい。 と言って、私達と固い握手をして帰っていった。 彼女達の大写しの写真はあえてこのURLには載せない。もし彼女らを救おうという人が現れたら、現況の写真を提供します。 |
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