8月6日−さて、慧海師はマリユン・ラを越えたか?(その2)
オツポカル(峠)5420mから観たマリンバンジャン(ネパール地図名) 中国地図名(マユン・ラ馬勇拉)5488mの写真は7月3日にありますので参照ください。

オツポカル(峠)の位置数値はGPS 29 26 984−27 055N 83 20 297ー21 005E 5466‐5540m高度計5294m。地図では29 27 00N 83 21 05E 5420m のこの峠から5度方向750mトラバースして写真のマリン・バンジャン(マユン・ラ) は国境である。GPS 29 27 272-316N 83 21 138-186E 5455-5572m 高度計5360m 地図では 29 27 20N 83 21 10E 5488mである。

山口端鳳氏の「チベツト・上、下」東京大学出版会の「上」に記されてる慧海が越えた峠、東経北緯29度30分、東経83度20分弱の馬丁峠(マティンラ)(この発音の峠はない)、ミンドゥルラ(この発音の峠はない)かと思われる。航空写真で観る限り、それを北に進むと長方形、円い池がある。 河口が自分でつけた池である。ヤルツアァンポ江を溯り、カイラーサ山とマナサロワル湖などの聖地を・・・・・。と記されてる。

だが、この数値は残念ながら、この峠から東120度、1.2Kmの国境稜線をさしていて、最も山口氏の数値に近いのは、名前は違うがヤナン・(エナン)バンジャン、雅南拉が中国側の地図表記である。 ティンキューの馬方はエナン・バンジャンと言ったが、ネパール・中国の地図の名称はヤナン・バンジャンとなっている。

馬丁峠は馬勇拉(マユン・ラ)の間違いかも知れないが、航空写真見る限りとあるのは・・・・・、どんな航空写真か私には解らないけど。地図にも長方形、丸、菱形の湖はちゃんとある。ロシアン地図にも。 峠から右岸を11.5Kmにまず長方形、約3.5Kmの巾で、500mの小川が円い湖、直径500〜600mぐらいで並んでいる。

そのまま瓢箪形に近い湖があるが、慧海師のいう半里といった小さいものではなかった。池の端はエンドモレーンになっていて目の前にヤルツアンポの流れと平原、背後にチベットの山々が波打っているが・・・・・。 東にはムスタン国境の雪山が見えた。(方向は東側ですよ)

確かに峠から北西に降りて、ヤナンコルシャを進み29 32 07N 83 17 42Eから谷は北東に向かう。菱形の3つ目の湖から西北に限らず放牧のテントはそこいら中にあり、交易のテント場も沢山あって人とトラックが行き交う、ヤルツアンポ河も・・・・・。

では、根深誠氏の「遥かなるチベツト」山と渓谷社、単行本中公文庫に記されたマリユン・ラを慧海師は越えた?

とりあえず、この名前の峠は地図上にない。オツポカルの峠が国境標識15の手前750mの東西に伸びる(シーメンへの谷 右岸)尾根のコルにあり、数値は前述の通りである。マリン・ (マユン・ラ)バンジャンへは一部シーメンの人達も利用するが、 殆どがティンキューの人達が利用する。 シーメンの人は楽に越えれるヤナン(エナン)・バンジャンを利用するし、人間だけの交易なら峠へ最短のチャラ・バンジャン 5425m 29 30 23N 83 16 20Eが使われる。 このチャラ・バンジャンは動物は越せない、ネパール側が急斜面で危険なため。また積雪時は危険なため使われない。

マリン(マユン)峠はネパール側は石畳の階段上にしてあるが、乗馬のままでは進めない。チャラ・バンジャンとこの二つの峠が急登で石段となっていて。他の8ケの峠は問題ない。 容易に峠に達せられる。

また、この峠はチベット側は北西に谷が開けていない。湖の見える両岸は狭くV字状に尾根があり、チベットの山が波を打った如くには 見えない。湖の形状が全く違う。 根深氏のいう間道は5つしかない。というのも実際は間道は10ある。 また氏は湖が二つあるのはマリユン・ラと北に位置するエナン・ラである。 湖が三つあるのは唯一マリユン・ラしかないのである。???とも。 ヤナン・バンジャン(エナン・ラ)には三つありましたで。 マユン・ラには3つ目の小さい池はあるにはあったけど、ルンモ・ツオ は湧水だけあって・・・。 そう確かに小さな湖はあったけど・・・・。峠から見えないので根深氏もひよっとしたら29 29 30N 83 25 40E辺りまで着たのかも知れないなあー。 確かに湖は100年もすれば形やなくなる事もあるけど・・・・。 でも40年前に造られた地図でも・・・。ロシアンマップでも30年前に 作られたらしいし・・・・。でもちゃんと湖は記してあるから・・・・。 そう!僕はそう簡単に湖はなくならない。と思うけどなあ。 上流が氷河なんかあるわけないし、どしゃ降り雨なんか降る事ないし。 まして雪が解けて水量増す事はないし。 まさか中国人が汚したから湖がなくなった? そんな事でなくならないと思うけどなあー。乾燥し過ぎて水が蒸発した! これは考えられるかも!。 ヤルツアンポ河がここまで氾濫しないし・・・・・。

慧海師が目標とした山はパチュンハム峰、ダフエソイラ峰と永年言われてきたけど、テインキュー村辺りやシーメン、ニサルからも、 このパアルチューの谷からマリンバンジャン(マユン・ラ)への谷や 峠を見出すのに、この目標の山は全く見えないのです・・・・?

パチュンハム峰を見るにはシーメンからコマ、サルダン村辺りのダジャンコーラ沿いの高い所か峠、ルリガオンからビジョール、 クー村間の峠などしかない。もしこの山が言われている通りに慧海師が目標としていたら、シエーゴンパに寄っている。そして シーメンかニサルを経由。前者ならヤナン(エナン)バンジャンで、後者ならニサルから一番易しい峠、湖もあるクン・バンジャンとなるが・・・・・。シエーゴンパへ巡礼したか・・・・?

が、これは(その3)、(その4)とつづく・・・・・・。

ところで、マリユン・ラと断定した根深氏は・・・・。何んで磁石を持ってこなかったんだろうか? 慧海師は磁石で北西に峠から降りている。と記しているのに 北東ですがな。マリユン・ラからチベツト側へ降りてる谷は。 北東に向かつてます・・・・・。 うねるように慧海師が見たチベツトの山は、ほぼ50度から65度くらしか、うねってません。

標識15からしっかりした路を160m高度計で降りると平らになって草原状を5360mから、57度方向にチュンパイポカリ4870mまで高度差 500m、ここから9Kmある。ここから、上の湖(根深氏のトゥク・ツォ)が 見える。

峠へのネパール側は岩がゴロゴロしている。確かに石畳風に階段状になっているが、八貫目の荷物があればしんどい。 オツポカルから峠へのトラバースは西側なので残雪はあったのでは?素人にはチベット靴での750mのトラバースは恐ろしいはず?チベット側、石磧まで160m、15分も下ればいいのである。 一里も難渋して下ったと慧海師は記している。 でも、慧海師は日表には雪がなく、日裏には一尺四、五寸も 足が入った。稀には七、八寸ですむ事があるけど・・・。 ここでトラバースの記述がない。雪目の対策の記述がない。 荷物を八貫目も持った人が・・・?これで素人が本当に雪の中を登り、 降りたり出来るだろうか・・・・?慧海師が越えた7月4日、我々は前日の3日であったが、同じ夏の雨季のシーズンである。

そりゃ!
年度によってはドカ雪が夏に降るかもしれないけど・・・。5300mぐらいの峠に1m以上も積るだろうか?ツアルカまで積雪や雪目の事など何にも書かれていない。ツアルカからモウ・ラを越えた時に降雪あったのだろうか?降雪の事は全然記されてない。

私達はトジェ・ラでドカ雪にあったけど、この時ピンドゥーバンジャンを越えてきたひと組のヤク売り商人はピンドーバンジャンには全く雪はなかった。もう一組もヤナン・バンジャンを越えて来た連中も同じく雪はなかった。

テインキューの馬方は、ここ何年と今頃は40/50 cmも積る事はなかったと思うけど・・・・・と言った。? でも慧海師が越えた峠には雪があった。

で、根深氏は結論・・・・以上のような理由で私は河口慧海は マリユン・ラを越えてチベットに潜入したと確信している。と氏は 断言している・・・・・?僕、違うと思うけどなあ・・・・・? 10もある間道の10分の1の峠探索、2回も行ってるけど・・・・、地理学的見地が弱い、現地の人達の言葉を全面的に信頼して いるだけで・・・・・・・。と私は思う。

峠だけが決めてでないのだ。 それは(その3)に続く・・・・・・・・・・。

瓢箪池をだんだん下に降りて行くと雪の山とテントが西北の方向に見えて・・・・。深谷重畳として外に取るべき道は見当たらない。雪の山辺のテントのある横に大変低い山が西北に・・・。断事観三昧をした時間的余裕などあって峠から西側が広がった所まで降りた。残念ながらマリン・(マユン・ラ)を降りて瓢箪池(GPS 5000−5095m)高度計 4860mに来ても西側は(GPS5021−5125m)高度計4960mの数値が出た丘で西側は湖から見えない。西。北を見るためにはこの 29 31 038N 83 26 090E地点に立たないと広がって見えない。これが決定的根深氏マリユン・ラ越え説断定反論である。この西の尾根に上がって150mの高度差を峠から難渋して荷物を持って降りて上がるのは ・・・・。で断事観三昧する余裕があって夕方までに老婆とあってテントに泊まる。は時間的に無理と思うけど・・・・・。


(蛇足)
宮田恵美さん宅で1905年の英語版の地図は・・・・。多分スエン・ヘデインの地図です。ここにありますけど・・・・・・。 スエン・ヘデインは慧海師の事を地理的見地から実測と照らし合わせてあてにならない。と述べている。 磁石の北西へ進んだか・・・。?マークかも知れない。 慧海師は典型的大阪人のひとりかも知れない。 私とて同じ生っ粋の大阪人なのだから。 ひょっとしたら連載購読者へのサービスで、面白くするために。 雪を踏んで8貫目も荷物背負って難渋してヒマラヤを越えて、チベツト入りした。

さあ、話は面白くなりだした。が・・・。 基本的には慧海師がどこの峠を越えようがいい。 いつまでも謎の方が面白いし、夢があるし。 大阪人らしく。いい加減にしとこと思いまんねん。
 
オツポカルの峠からマリン・バンジャン(マリン・ラ 馬勇拉)を見た国境標識15がある。
コンパスグラス320度から132度のパノラマ。ほぼ180度。ここから一旦下降して国境峠へとトラバース気味に登る。
 
測量地点、スケッチ地点は前に高度計4870mから見た地図上 29 29 50N 83 25 15Eからチュンパイ・ポカリを見る。
 
チュンパイ・ポカリの西の丘を上がり、北西にどんどん下ると眼下がこのように広がった。
勿論、北から北東にかけて180度 にチベツトの山々がうねって、アルニコチュリーも見え続けている。
 
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