2th.AUG
朝一番のヒコーキでカトマンズへ戻ることにした。昼は「菊レストラン」のトンカツを食すことを長い間考えてたという最貧困食生活者にとってHAPPYな昼食であった。これで、また毎日が「今夜は何?食べる」の生活が始まのである。平和だなんだなあ。某不良我侭中老年田沢の惇なる人物が不在なので平和も倍増なのである。が、しかし「さば味噌アダアダ」正しい昼食が出来ない。明日から奥田が来るちゅのに、明後日には息子夫婦もやって来る。貧困者は金銭的苦悩の日々を送らねばならない。不幸な日々を迎える訳だ。これ以上不幸な報告を書けない。これにて今回の報告は終了とします。長い間お付き合いありがとうございました。
ムスタン、トルボに関する面白いことが書けることがあれば、急にこのカレンダーのどこかへUPするかも知れません。ご期待あられますように…・。ここでスネルグローブとトルボのお話を一席。
DAVID SNELLGRROVE HIMALAYA PILGRIMAGE a study of TIBETAN RELIGION by A TRAVELLER THROUGH WESTERN NEPAL 1961 Oxord.
の口絵写真よりトルボの山に関する考察
 




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7月26日の日記:カルマのトルボ講座(2)にD.スネルグローブは
ムー峠(モェ峠)19.000feet5800mを越えたと僕は推測した。
この峠は村のMusi Khola左岸の畑1Km上流Musi Gothのチョルテンから東に入る
Lanla Kholaを遡り国境に出る路なのだが、確かにスネルグローブがシーメンへ行った
彼の概念図の通りの路はインド測量局、新ネパール地図にあることはあるのだ。
そして彼はこの路を通ったかも知れない。が、しかし疑問点もある。
彼の著書では、ムー峠の標高は19.000feet(5791m)、
Lanla Ghurbk Lekの峠は5040m〜80mの間なので彼が標高を
700mも間違えるはずがないと思うからである。
このムー峠からの南望と原書モー(モェ)峠から北国境を望む
(注3参照 Roerich;The Blue Annals,pp.473-80,485-7および、
H.E.Richardson;The Karma-pa Sect.A Historical Noteユ,Jounal of the Royal Asiatic Society,
1958,pp.139-164参照とある。)そして峠からの二つの写真がある。
この北を望むのキャプション注釈、つまり冬の放牧の為にトルボの人達は峠を越えて
Tibetへ行くと記されてあって、このLaru Bhanjyangもそのひとつである。
ムシ・コーラの二俣メストウト(Mai Sundo)出合、右に行くとMeng Bhanjyangである。
この出合は広河原となっていてカルカと気持のいい草地がある。
Chharka Bhot Himalのhttp://www.showa-p.co.jp/oac/japanese/dolpo/dol_0809.html (参照)の
僕のスケッチが影の山並みでその右に僕達が間違えて、この谷がLaru Bhanjyangへの路と思いテントを張った所である。
夜、ヨシナガはんに電話を入れて僕達は一本上の谷に入ろうとしていること。
2Km下の出合がLaru Bhanjyangへの出合であること。そこからKhung
Bhanjangへ横断出来るかも・・?など調べてもらった。
この地形の奥、チベット側に6024m頂上から東に観たチベットのヨセミテが
にょつきりと空に突き出ている。これをスネルグローブはきっちりと観ていた。
方角からして、概念図のムー峠5040m(新地図:E83 11 53 N29 29 34)付近からの写真で
E10方向となって口絵写真と合う。それなら国境上の前述の僕の推理は違うことになる。
やはり概念図の国境に達しないでシーメンに行ったのだろうか?
 話は慧海師越境峠推理じみて来て面白くなってきた。
Chharka Bhot Himalの標高は5744m、5785m国境と峠東横の5932mの突岩峰、
この北東すぐのチベット側に剪宗Chayang Chungと表記されて標高はないが岩峰記号がある。
計測されていない岩峰である。6000mは越えている。これが、写真3組のチベット側ヨゼミテ岩峰である。
Yosemite−1はスネルグローブのXXの口絵写真。
Yosemite-2はSardangからNamgun Gompaへの峠4520mの峠から
DVC望遠で捕らえた、その岩峰である。Yosemite-3は6024m頂上からDVCでの望遠でとらえた岩峰である。
Laru Bhanjyangが5239mなので、標高差は・・…?mである。800mから1000mあれば素晴らしい岩峰発見となる。
 こいつは、来年国境の山として行かねばならないだろう。でも、我々の技術で登れるかね?
まあ、一杯キヤーを持って行こう。
 


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同じく、同じムー(モェ)峠からの南を望むXXIの写真は、南ではなくて西を望む写真であろう。
新地図 SALDAN Sheet No.2983 09からムー(モェ)峠を
スネルグローブが書いた概念図の峠から南を見ると、この景色は見えない。(上の写真)
(下の写真は)
FOUR LAMAS OF DOLPO Tibetan Biographies edited & translated by David L.Snellgrove,
Vol.I Introduction & Translations Oxford,1967. Illustrations from the authrs own photographs.
No.7 Descending the other side of the main pass from Bar-rong(Barbung) to Tarap.
View north westward toward the great watershed(the head of the horseshoe-see p.4)
which separates inner Dolpo from Tarap.
この口絵写真、キャプションの写真位置はJyanla Bhanjyang5108m(Jyenla) 新地図では約5120mで、
ツォカルポカン、カンジロバN、S、が両方の写真に見える。
 




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サルダン上部からのパチュンハム峰6529mである。
http://www.showa-p.co.jp/oac/japanese/dolpo/dol_0711.html の望遠写真である。
パチュンハム峰はこの付近では唯一の独立峰で屹立していて、ナムコンの南の峠から、
サルダンの上部から見ることが出来る。
Eric Valli & Diane Summers Caravans of the Himalaya London,1995.のカバー表紙を飾っている。
ほぼ同じ角度からのDVC静止画像の望遠写真で、手前の真白な山はDaphe Sail (Danphe) 6103mある。
ついでに6024mからの新写真の発表である。
左のダフェサイル峰の雪質は標高が低いのでザラメ状のトルボ特有の雪で頂上の北側に
小さな岩があってチベット側のコルへと続く。ここからパチュンハム峰は岩稜になっている。
東壁は大きなU字状の壁が北東稜へとなっている。
この岩稜の向こうがヤルツァンポへ真直ぐ延びている北稜なのです。
 

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