7月21日
今日の行程は25Kmだけ…・。イヤ!30Kmはぐだらんかな?。急登の路、大トラバース路、小グランドキャニオンの岩稜上の路から気の遠くなるカリガンダキへの直下型大下降路歩行付き…・・。「奥田!まあ!たいしたことない」「お前が行く、この秋のエベレスト(Team UKYO)には、ええトレーニングやねえ!」
 Tange Khoalには木橋が架っていて、真黒な濁流の渡渉は免れた。ブッシュ帯からYak Kholaの泥川は浅くて容易な渡渉であったが、GPS 4231mN28 58 010 E83 56 3809時10分着。ここから延々3時間の登り路には、めずらしく奥田もバテバテで…・・。峠へ11:05着 GPS N28 58 010 E83 56 389 距離にしては少しなんだけど…・・。
 SW237にダウラギリI峰が見え、行く手の尾根が大きく245まで見えて…・。奥田が「まさか、オオニシしゃん!あんなところまで行きまへんワナ?」「絶対!この谷をおりまんがナア!」「アホ!ありゃ、まだ5分の1で尾根の出鼻の所やんけぇー」「そりゃきつい!きぜつしそゥーでんガナ」峠から下りてトラバース路から谷を渡るとPhan GPS N28 57 307 E83 55 839の小屋と水場があって大休止の昼食とした。この上に放牧テントがあって、D.V.ライがミルクを買って来た。ここから殆ど水平トラバース路でカリガンダキの右岸の景色は昨年とほぼ同じで1時間も行くと見覚えのある昨年の2次順応で来た景色が見えてTetang、Chhusangへ流れるNarsing Kholaの上流の谷が大きく東に入り込んでいて、カリガンダキの右岸、Tojela Bhanjyangの辺りが見渡せる。路は谷への降り口のV字状の門へ行かず、右の水平道を進むとSiyarko Tank dadaと命名されたNarsin Kholaの砂岩の大針峰群崖の上へ行く路となる。水平道は途中で壊れて通過不能である。奇岩の上はカリガンダキ特有の強い南風をまともに受けて飛ばされそう…。どんどんやや下り路を歩くのみ…・、やがてカリガンダキの川床とChhusangが見えて、奇岩の中の迷路から河岸段丘に降りて、Chhomnanの下のGompaから今日の泊り場、Chhumnanの上Gompaの前庭にテントを張った。
 Gompaの娘は、今朝、ゴンバ・カンのゴンパから激流のカリガンダキを一人で渡って来た。Chhomnanのヒゲの馬方が現れて、「バラサーブ、ゴンバ・カンへカリガンダキ河を渡れまっせ」「明日、行きまひょ」と手土産のアプリコット片手に語る。このゴンパの尼はチェワン・ドルモといってなかなか可愛くて、ひょうきんな尼で、何ンにでも興味を示した。ゴンパの名前はサンガァク・チェリン・ゴンパというらしく、明日の朝「ご案内致しましょう」「そんなことよりお写真撮ってネ」という。夕食はゴンパの2Fで採る。
 
3m高くなった、ブリクティ・サイル峰6364mの写真がやっと見つけました。
左の山裾は国境の6899mで、右にうっすら写っているのは、東の6337mです。一番右は6328m。
 
この6899mも同じくFujichromeの写真の中から見つけまして…、またまた登場ですが、
この辺りでは高い山でして、手前右の南西稜が国境でブリクティ・サイルから凸状に
国境がチベット側に飛び出ているんですな。
名古屋の田辺治君に最近会っう機会があって聞いたら、
「ラトナチュリーから西には低い山で、いい山はないようで…!」と言ってたけど、
ラトナチュリ報告書の同定にラトナチュリー西方を見る。というのがあります。
 
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正式には1999年信州大学・ネパール警察合同ヒマラヤ遠征隊「ラトナチュリ初登頂報告書」信州大学山岳会、
信州大学学士山岳会:朝日新聞出版サービス、1999年
 報告書にはカラー写真で美しい周辺の山々の紹介があります。
ラトナチュリ西峰(6600m)から西〜北方面の展望というのがあります。
中ネ国境協定付属地図、新ネパール地図(1:50000)では西峰は6604m写真の中の
6089、6298、6205は国境で6704mから6899mへと続いている。
6730、6572は完全にチベットの山となる。6899mにChaco6727mの標高がついてる。
Khamjungarに6700mの標高が付いているのでインド測量局の地図で同定された?かも知れない。
同名の名前が6899mに付いているのは、今のところ?マークでただいま調査中です。
インド測量局の地図を探し出さねば……。
 
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この峠に着いた時はホッとした。
ミルクティを呑みながら往路を振り返ると左(西)にツァーランの
グリーンの畑からコレ・ラ方面と東国境からチベットの丸い山々、
目の下のグリーンはタンゲ村で河岸段丘への『くの字』模様の下り路、
河岸段丘から奥の谷がDhechang
Kholaで二つ目の河岸段丘、三つ目の谷がPyon Khlaとなる。
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峠から南へと下る路は目の下に真直ぐ路が見え、小沢へ左に廻り込むとPhanの水場。
この谷の上に水平トラバース路が4600m〜4900m山々の裾野に延々と右端まで続き…・。
「奥田ぁー、シンドそうやなぁ・…!」「そうでんなぁー」
100mほど下り、往路を振り返って峠を見る。
峠には一本のポールとマニ・フラッグが飾れていた。
この小屋はダモダールクンド参拝者相手なんだろうか?、それともトレッカー用のロッジ?
小屋の山側の草地に放牧テントがある。
カリガンダキ左岸の村の人達の多くはこの路を利用するのか何人かの村人と出会った。
老若男女いずれも馬に跨る。
上の写真に来ると、まだまだ続く水平路、尾根を廻り込んで遠くに見える水平道はBaha
Bhanjyang 4490mの西 Siyarko Tank Dadaの針峰砂岩群の頭を歩く路への水平道。
奥の辺りが昨年、順応出かけた辺りです。
2001年の秋に見た風景
http://www.showa-p.co.jp/oac/japanese/mustang/mus_0920.html
この崖の上を約7Km歩くとTetang、下流にChhomnang,Chhusangの村が見えてくる
右の洞穴住居跡の崖の中の路を下ってくると下の寺の前に降り立つ。
上流側にこの大きなチョルテンが見えて、やってくると写真の上方寺、サンガァク・チェリン・ゴンパ。
青いリンゴが植わっていて自由に村人は食べて、「食べる?」と必ず問う。
 
上寺の仏像 Pandmasambhava、ヨシナガはんがJAC Vol.II に顔写真を…・。
グル・リンボチェ・パドマサンバヴァにまつわる霊蹟は多くムスタンには沢山あるし、
シェルパ達も、信仰の対象にしている。
D.Snellgrove Himalayan Pilgrimage : A Study of Tibetan religion
by a traveller through Western Napalモ Oxford,1961.
吉永定雄訳「ヒマラヤ巡礼」白水社、1975. 『2002年9月第3版出版される』
松井亮:写真、奥山直司:文、「ムスタン」中央公論新社、2001 は参考文献のひとつ。
 
上寺は中に入るとゴンパはどこに…?というぐらいで2Fの食堂、キッチンの方が有名で
1Fの物置の奥にゴンパも物置風であるから、ありがたみがない、とてもゴンパと思えない。
「掃除機と雑巾があって二・三日頂ければ、きれいにお掃除してあげたる」ぐらい乱雑で物置かゴミ置きとなっている。
だから仏像も盗まれたり、売られたりしなかった?。
その済みに「何…?、雪豹…?」「我家のLIMIちゃんの先祖のミイラじゃあないの・・?」
JAC Vol.IIのヨシナガはん写真と全く同じ位置からの写真です。真中に小豹ちゃんのがいるのが解りますかね…・・。
 
この尼さんは、ここのお寺の娘で、2000年の4月末住職のお父さんが亡くなり、
今はここの住職となったとアンプルバは言った。そうかなあ?
僕達の若いスタッフは彼女とお話をしたい。
今朝の暗い内に、カリガンダキ右岸のゴンパ・カンから一人激流を渡渉して来た彼女は陽気で活発な娘であった。
「この下方寺のゴンパは何ンてぇーの」
「ねぇー、おにいさん、そんなことより写真撮ってょ、ネェーったら…・」
「パドマサンバヴァで発音は正しいの?」
「おっさん何にムズカシいこと聞イとんじゃ!」
「オォォォォ…大それた発言…・コワー」と右のヤラ村のゴラ・ドライバー
「ハイ!ハィ!そうでっか!そうでっか!」
「そんなこと、どっちでもヨロシイやんか」「ウィーイ!」と左の酔払いツォクナム・ゴラ男
 

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