20th.JUL
日本では何の祭日かシランけどお休み。僕らにはお休みなしなんだ。フム?すーつと休んで遊んでるヤン。いいえ!僕は学術的地形学探求とパソコン修行という大名目があるのだ。「フム!やはり大バサラーブなんだなあ」と奥田はうなずいた。
 D.V.ライとアンプルバはヤラ村からローマンタンからの本道を下ってジョムソンへ、帰る路を盛んに薦める。あっちの方が楽くだけど同じ路を歩きたくないので、TangeからChhomnangへ出る路をとることにした。Guma ThatiからThimiへ出てTangeへ下る路が僕の概念図に記してあるけど、これは現在使われていなくて一旦Yaraへと下った。YaraからTangeへの路は新地図にはないが、ヤラの同行するゴラ・ドライバーに問うと「おまっせ!おまんがな!近道が…・・」
 Dhimi Kholaへ降りて、カリガンダキの左岸、大きな広い河岸段丘に出て山裾を巻くようにして一時間半、真っ黒に流れるDhechyang Kholaの川床に下りた。真黒のドロ水の濁流を渡れる?か。奥田達が先行して渡渉開始。D.V.ライはキッチンボーイのスニールが泳げない不安からかドッコを担いで渡れない。
 D.V.ライが持って渡渉したするも対岸手前で、川ン中へ流された。すばやくキッチンセットを放り投げて、対岸へ渡る。キッチンセットは濁流に呑まれた。まあ人間が流れなくて良かったと超人間性感性でもって対応するバラサーブ・タイフーンであった。
「タタ…・高いキッチンセットが流れて行く…・」と奥田、アンプルバは叫ぶ。
「圧力鍋2ケ、コッファー類、EPIヘッドにプロパンコンロ、鍋に炊事用具一式など」良く流れた明細が解るなあー。
「奥田!お前らの炊事用具を一緒に使おう」「一緒に食事しよう」「ヤダなあー、オオニシしゃんと一緒かあー」「怒鳴られるの…・・ヤダなあー」と奥田とずぶ濡れのコックのD.V.ライは呟く。「キンチョウーするなあ」とも…・言った。「そんならお前等弁償せえ」ここから、小沢の沢横と砂道の急登が強烈で、路も明確に解らずドンキー達も難渋すること3時間、峠に出た。GPS 3938m N29 02 610 58 365 あとは一旦下って、広い高原状から河岸段丘の広っぱを進み、Tange Kholaへ遡るように斜面を下ると顕著な8ケ連座のチョルテンとゴンパ、集合住宅のタンゲ村へ15:30着。村を探索して、ゴンパのお参りをして、村に唯一のレストラン?横にテントを張った。
 
ヤラ村はPyon Kholaの対岸にある。
僕の概念図のDhimi Kholaとあるのは一本北のコーラで、
ここは正しくはPuyun Kholaである。この辺りを概念図を書いた時、
イラストレーターでDeと書いたところ、レイヤーをトレイルに混入して…・・。
直接移動させたので左岸にトレイルも移動してしまって校正ミスが重なった。
川の名も同じ…・。
 
河岸段丘とはこんなところですわ。振り返るともっと広いでっせ…・。
 
デェーチャン・コーラの黒色激流にカッチャルもお腹に水流が浸かり難渋する。
人間はもっと難渋した。全てのキッチンボーイ達は泳げないので、明早朝に渡る!とダダをこねた。
 
タンゲ村はTange Kholaの右岸にひっそり佇んでいた。
2000年の夏、東京の石井君達はここを登って行った。
写真の村背後に見える両俣の真中の尾根に沿ってYari Bhanjyangの路を行き
4259mの峠から再びTange Kholaへと出て、
川床からChanje Khola手前5.5Km手前の小さな沢に入り5818mの峠を越えて
Yamkang Kholaへと入り、推定N29 58 00 E84 05 00にベースを設けた。
さてどこの山に登ったか?これは後日に…・・。
この彼等のBCはGhuma Thatiの南の裏山4856mから奥田が順応でD.V.ライと一緒に登り、
石井君達のBCを同定した。HAJ隊とほぼ同じルートである。
集合住宅で村の上流と下流に顕著なチョルテンがある。
この村は、あのガィ・ワンディ率いるカンパ族が暗躍していた頃、
根城にしていたところでもある。
(秘境ムスタン潜入記:高橋照著・東京新聞出版局1979年)
( Cavalier of Kham.The Secret War in Tibet.Michel Peissel,London 1972)
に彼のことは詳しく書かれているので省略します。
Tangeのゴンパの壁画は殆ど壁が荒れていて、この程度の壁画が何体かある。
詳しくは奥山さんに聞こう…・・と。
丁度、ゴンパではロキシーが造られていて、読経も執り行われていた。でも、荒れ放題で
霊験あらたかなゴンパの雰囲気ではない。太鼓だけが居様に立派であった。
ゴンパの東側には2列4連座、大きなチョルテンと小さなのと奥に大きなのが…・。
トルボのヤンツェリン・ゴンパは9連座だったけど…・。
手前はグンガン・ゴンパと呼ばれているゴンパでラマが3人。
サキャパでラマ僧は3人いる。
村の下流側にあるチョルテンはめずらしい祭壇に使うのだろうか?
初めて見たチョルテン?変形なものがあった。アンプルバも何んだか解らないと言った。
仏画のマニ石がひとつあった。
 
ガィ・ワンディの陣地跡・・・・?
 

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