7月20日 | |||||||||||||||||||||
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ヤラ村はPyon Kholaの対岸にある。
僕の概念図のDhimi Kholaとあるのは一本北のコーラで、 ここは正しくはPuyun Kholaである。この辺りを概念図を書いた時、 イラストレーターでDeと書いたところ、レイヤーをトレイルに混入して…・・。 直接移動させたので左岸にトレイルも移動してしまって校正ミスが重なった。 川の名も同じ…・。 |
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河岸段丘とはこんなところですわ。振り返るともっと広いでっせ…・。
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デェーチャン・コーラの黒色激流にカッチャルもお腹に水流が浸かり難渋する。
人間はもっと難渋した。全てのキッチンボーイ達は泳げないので、明早朝に渡る!とダダをこねた。 |
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タンゲ村はTange Kholaの右岸にひっそり佇んでいた。
2000年の夏、東京の石井君達はここを登って行った。 写真の村背後に見える両俣の真中の尾根に沿ってYari Bhanjyangの路を行き 4259mの峠から再びTange Kholaへと出て、 川床からChanje Khola手前5.5Km手前の小さな沢に入り5818mの峠を越えて Yamkang Kholaへと入り、推定N29 58 00 E84 05 00にベースを設けた。 さてどこの山に登ったか?これは後日に…・・。 この彼等のBCはGhuma Thatiの南の裏山4856mから奥田が順応でD.V.ライと一緒に登り、 石井君達のBCを同定した。HAJ隊とほぼ同じルートである。 |
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集合住宅で村の上流と下流に顕著なチョルテンがある。
この村は、あのガィ・ワンディ率いるカンパ族が暗躍していた頃、 根城にしていたところでもある。 (秘境ムスタン潜入記:高橋照著・東京新聞出版局1979年) ( Cavalier of Kham.The Secret War in Tibet.Michel Peissel,London 1972) に彼のことは詳しく書かれているので省略します。 |
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Tangeのゴンパの壁画は殆ど壁が荒れていて、この程度の壁画が何体かある。
詳しくは奥山さんに聞こう…・・と。 |
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丁度、ゴンパではロキシーが造られていて、読経も執り行われていた。でも、荒れ放題で
霊験あらたかなゴンパの雰囲気ではない。太鼓だけが居様に立派であった。 |
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ゴンパの東側には2列4連座、大きなチョルテンと小さなのと奥に大きなのが…・。
トルボのヤンツェリン・ゴンパは9連座だったけど…・。 手前はグンガン・ゴンパと呼ばれているゴンパでラマが3人。 サキャパでラマ僧は3人いる。 |
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村の下流側にあるチョルテンはめずらしい祭壇に使うのだろうか?
初めて見たチョルテン?変形なものがあった。アンプルバも何んだか解らないと言った。 |
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仏画のマニ石がひとつあった。
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ガィ・ワンディの陣地跡・・・・?
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