19th.JUL
昨日、ヨシナガはんと純子メンサーブにインマル電話を入れたら、ナカムラが入院したという。朝、会社に電話を入れると「緊急入院をした」と答えた。奥田達と行動を共にして一旦大阪へ戻るという事にした。ジョムソンまで3日で帰る予定とする。
6時半に奥田は出発。キャンプサイドより6899mを再確認する。コンパスグラスでSE方向。ラマ・チョルテンがE147である。ヤラ村の男達はこの山名をKangriという名前で、信仰の対象としてお参りをするとも付け加えた。裾野のいくつかの氷河中のポカリを廻るらしいけど、山の名前は単なる「山」というのは…?マークを付けざるを得ない。
 7時前にパサンディキと出発。アンプルバは今日から奥田達パーティが加わったので、いそがしい。8時40分にラマフラッグのある、往路霙が降って震えた石積みチョルテンGPS 5014m N28 56 508 E84 08 646に着いて、ここからもう一つ手前の峠、石積み大チヨルテンへ10時に到着した。GPS 5514m N28 59 930 E84 07 140 SE149から178にSherapko Himalの山なみが見え、E132に6899mとその右にBhrikuti Sail6361mへの国境線上のダラダラ長い尾根から主峰が見えた。早速スケッチをする。
 スケッチを終えて、新地図と中ネ国境地図のBrikuti Sailの標高が異なる、位置関係がおかしい事を思い出した。JAC Vol.II 附属地図を書いた時も新地図に基づいて書いたが、新地図では国境の300m西にピークの印があり標高6361mとしている。中ネ国境地図では国境線上に記されていて6364mである。明らかに新地図の間違いである。ヒマラヤ名峰辞典の標高も6361mを薬師さんは採用しているが本当の頂上は300m東の6364mとせねばなるまい。頂上がまん丸なんですなあー。まあ3mぐらいいいか・…?
 インド人のミイラ化した死体がある川床の大岩まで、大下降路をトコトコ歩いていると、インド人サドゥーが4人とカグベニ村のおばさん、おばあさん達の8人グループが上がってきて「お参りしてたの・…?」と問うた。「ハイ!そうですよ!」とアンプルバが答え、ダモダールクンドには今夜着けるだろうとも付け加えた。インド人サドゥー達の一人は毛布を敷いて寝ていた。「業をしてる・・?」「疲労死…?」ただ疲れて、腹へってるだけだろうか?毛布以外何も持っていない。
 30分後に川床へ降り立ち、先を急ぐ。12時35分、往路にヤラ村の青年達とあった峠5340m N29 01 184 E84 05 488に着く。M.N氏の先行する若いシェルパと出会った。ナムチェのアヌー・シェルパの息子であると挨拶した。アンプルバは親父のアヌーはお腹が張って手術をした。と言ったが詳しい病名は解らない。今は全快?してナムチェで静養してるらしい。M.N氏とは今回は同行出来なかったらしい。途中で彼等のキッチンスタッフらと出会いながら下ると「M.Nさんじゃあーありぃーませんか」「そういう貴方は…」の会話を若干交わす…。奥田は親切に新地図の「ダモダールクンドはもっと北の方ですよ」「ずーつと北の方ですよ」と教えたとM.N氏は言った。「またカトマンズで会おう」と別れた。もう4時…、ここから尾根上の斜面を走り下る途中で昨年度登った6227mが残照に美しく見えた。ルリゴンパへの川床5時15分、川床路を下り6時過ぎにヤラ村に到着して、ゴラドライバー家の狭い裏広場にテントを張る。
 
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往路霙で震えた石積みチョルテン手前の高原上からEを見るとNamta Kholaの左右の風景、
ブリクティ・サイル峰から6019mまでの北に伸びた国境、
その奥に聳えるKangri(ヤラ村の男達のいう)6899mの西側が堂々と見え
Sherapoko Himalの東の山々が目の前に見えた。
 
ひつこいようだけど、奥田がデジカメでとらえた6899m
 
奥田の撮影によるサリブン峰ハイキャンプの記念撮影、背後の山はChhib Himal 6650mで岩峰の山は6225m西壁
 
サリブン峰6328mNW側は雪の丸ぁーるい奇麗なお山で左(北稜)から登ろうとした。
奥のチブ・ヒマール6650mは楽しく登れるだろう。
ハイキャンプの上部は広いプラトゥーになっていて、奥にChhib Himal 6650mの北稜と北西壁が素晴らしい。
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Bhrikuti Sail 6361mとネパール新地図ではなっているが、
中ネ国境附属地図1:50000では6364mとなっている。
 
 

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