LIMI's Growth Diary (10.Nov.2004 No.33)
 

11月10日

10月29日TG320便 KTM=BKK機内にて、この文章を書いています。
永らくLIMI成長記録をUPしないでメンサーブ純子ママへ、スラヤ衛星電話を使用して「さあー、お散歩に行こう」という忙しい時間になると報告を送って来ていた。僕は時々盗み聞きしたことがあります、メンサーブ・ジュンコママは「ケイちゃん+まどちゃんにユラちゃんという可愛いお孫さんが、8月4日に生れまして・・・・」トーゼン!彼女の世界は僕やバラサーブの事など『頭の中から全く消滅という』『頭ン中空白状態』という緊急事態まで発生したのでありますが、タイフーン留守中に台風何号さんとかがオーゼイ!我が家を襲い、その度に僕はズブ濡れ寸前まで追いやられたり、お家があちこちが雨漏りしたりして、僕のおしっこ、ウンチお散歩も『ごく短時間で済ませるように・・・』とおっしゃいましたが、バラサーブ・タイフーンがいない割には毎夜メンサーブは僕の唯一の楽しみ「お散歩」を欠かさずしてくれました。このへんは「偉いなあ」と思います。
このことはお褒めの言葉とお礼を言わねばなりません。ワンワン!

(慧海師足跡:その1)
ところで、トルボの北側、すなはちチャンタン側にいたバラサーブは6529mのパチュムハム峰という山を若者と一緒に登ったのであります。ABCでは何もせず5日間キャンプの廻りをウロウロしただけで、全く順応活動はしていませんでした。
  荷上も馬に乗って「ハイヨー!そら行け!」と鞭を打つだけです。この写真5枚組はベースキャンプに入った数日後に「キモトとジャングル・カンチャ」を従えて、ベースの東、イナン(エナン)・ラのチヤンタン側にあるイナン・ツォへ再度出かけた時のものです。つまり、慧海師がイナン・ラを越えたとしたらこの湖に来て、そこからネーユの放牧地の老婆のテントへ着いて1泊したのです。ここからルンチュン・カモ・チューの草原の放牧地ネーユへは歩いては、夕方には着かないほど遠いし、馬でも3時間から4時間はかかります。とても「観自在三昧」などして座禅など組んで「どっちに行こうかいな?」と考える時間などないし、河岸段丘になっている古いアブレーションバレーの上は凸凹の登り下りがあります。時間的にイナン(エナン)・ラを越えて老婆のテントへは行きつけないだろうというのが、キモトなど若手の見解です。キモトが若い????
  それにイナン(エナン)・ラのチャンタン側はゴシャルゴンパへ行くのには、真北に行っても50`はあり、1900年7月5日の大平原は多分水浸しの沼化していてキャトゥー・ツァンポの川は大きな流れとなっていただろう?。
  もし、この峠を慧海師は越えたとしたら、ネーユからキャトウ・ツォンラ、塩湖のツォ・ルーワの横を通り、ナクチューシャン・ラからツァンポ河本流へと広がる大水溜りのかすめて、ナクチューシャン村、キャトウツォンラ:ネーユ、僕達の大本営(BC)のあるナムバドン(バントン)。ナクチューシャン村から北に広がる大水溜にあるカルカ:リヌール、そしてナクチューシャン村:35年から40年前はシャベンシーと呼ばれていて、ゴシャル・ゴンパの麓に4〜5軒の家があっただけであった。でも、ゴシャルゴンパは既に存在していたのです。
  この地に慧海師は老婆の息子のヤクにまたがり、チャンタンに入った翌日に1日で白岩窟に来れたであろうか?ネーユの放牧地から北西、約20キロの道程である。一方イナン(エナン)ラを越えるとイナン・ツォの湖の横を通って河岸段丘の流れを下り、キャトゥー・ツァンポの流れ手前の放牧地、プーリン・ツェと呼ばれる放牧地の老婆のテントに立ち寄り一泊させてもらい。翌朝流れをヤクに乗って渡り、水流の複雑な川を何度も渡り、プーロンナグロの放牧地と湿地からテンザン・ラを越えてゴシャル・ゴンパへ。
  たっぷり1日ヤクに乗っての行程を進んだのだろうか?。これは50キロ以上の行程であってヤクに乗ってでは時間的に無理である。
チベットのヤク使いは朝早く出発しない。まあ朝、昼兼用の食事をまず採って、昼前の出発となる。チベットのヤクに乗ってみたが、こいつは馬と違ってスピードは上がらないし、丸一日乗っているのは苦痛以外何物もない。
  イナン(エナン)・ラを越えるパンザンコーラ上流のシーメン村やティンキューの人達はナクチューシャンのゴシャルゴンパへはお参りには行かない。この峠以東のチャンタン側は行政区としてはペンチューシャンの人達の放牧地であり、経済圏や生活共同体はペンチューシャンとなり、当時はジェストの報告のように「シュンル」Shungru「バワ」BAWAという二つの村で、ナクチューシャン側はシャンベリー(Shabensi)呼ばれていたのだろうか?。当時からゴシャル・ゴンパより大きな有名なナムラ・ゴンパがあって、現在の行政区のペンチューシャンの中心への峠手前を西に行った小さなセルチン・ゴンパと比較しても、かなり大きな勢力と信者がいたと思われる。
  (ジェスト:フランス人人文科学者:Corneille Jest/DOLPO,Communautes de Langue Tibetaine du Nepal 1975 PARIS.
 
LIMIちゃんはバラサーブが出発の朝、やや横向き80度角度で「スネた素振を見せた」「行ってくる」とバラサーブはやや機嫌よく言ったのに「フン!」と吠えた。 20040915 西チベット登山隊の大本営(BC)キャンプはギャンゾンカン峰への谷が正面に見えるデートゥ(N29 43 598 E83 15 061 4607m)という所に設けた。ここにCTMAのドルチィ(ドルジェ)と通訳のチェリン・タシ、通訳よりドルジェの方が堪能な英語会話を話すのである。この大本営に隣りのチベッタンが捨てた(ホッテおいた)犬がこいつなんだ。
 
大本営のベースキャンプから東へ大平原を約1時間半進むと…
(前はキモト、後ろカンチャ・ダイ)
 
すぐ、カンネツェ(6094m)の東の谷、ギャンゾン・チューの出合が広くて、その奥に岩峰がニョッキリと姿を天空で聳える。 ギャンゾンカンだ!
 
1999年にTAKEとやって来たこの湖は、やっぱり美しかった。あの時は「長方形の池発見」で興奮したけど、今回は何故か冷静なんだ。もしそうだとしたら「キモトとネーユへの路から逆行してるんだけど・・・」 そのネーユからは遠過ぎるんだなあ。
 
以前と同じ所にテントを張った、その向うにペンチューシャンの人のカルカがあった。チベッタンクール(チベットテント)の背後にトラックが駐車してある。その奥の谷がネパール側のモ村へ行くメンゲン・ラへの谷で、左の湖の谷を上がるとイナン(エナン)・ラへ出て、シーメン村である。去年の夏、シーメンでは、このイナン(エナン)ツォにはバザールがあって・・・・、トラック路があるので公安か軍隊がいるかも知れないと脅かされたけど・・・・。トラックはチベッタンの個人のもので、今年は約50〜60台のトラックが大平原のカルカに駐車していた。中国(チベット)の近代化は、このモーターリゼーションの発達が大量物資輸送と消費をもたらして、到るところに消費物資が行き渡り、益々ゴミ処理ということを知らない文化に入っていった。ひどいものだ
 
伊豆の伊東市に新居を構えたカトマンズの大津兄の近くには、
こんなお山がある。
  カトマンズからやって来た男たち・・・・。
色紙の通り十人十色なり
 
伊東市には、こんなフリークライミングの岩場があるけど・・・とオオツ兄は叫んだ。
「でもワタシは泳げないし、登れないし・・・・」

 
カトマンズのVANVANのタカク氏は往年のクライマー、全く登れなかったのに10月25日出かけたナガルジュンの岩場で「ナント上手に登るではないか??」
「ナンか面白そうだった」 「ナンか重そうだった」


「おーい!千田」「ダイージョーブかあ」「変なタイセイやけどなあ」


「おーい千田」「完全に変な体勢やけどなあ」「こいつは日本人で始めて、ナガルジュンのこんな変なタイセイルート登った」 とバラサーブとタカクの二人の老クライマー、慌てず騒がず!静かに暗くなったカトマンズへ消えていった。
「また翌日来ようね」と約束してたのに姿はなかった。