LIMI's Growth Diary(24th,Apr,2002 No.15)

まどか、広タンの合唱の歌ではありませんが、僕も飛べるんだ!飛んで!飛んで!……廻って、廻って、まわるるるるうううう。の画像を撮り込むのだ。といいバラサーブは22日の月曜日は明るい内に帰宅され「おおーい!飛べ!」と狭い庭に僕を放してくれました。
 僕の唯一走り廻れ、飛べるタイフーン家の狭い庭、というよりセコイ植木鉢風庭は先週土曜日にバラサーブタイフーンによって「チョツキン!チョッキン」と植木屋さんの真似事により、そこいら中の竹や木々を刈りまして「どうじゃ!美しくなつたやろ」と僕にいいましたが、「ン?どこが・・・・・?」もう、あれこれ30年以上も大切に育てている2鉢の「こめつつじ」の小さい方が咲きました。紫色の「十二単」の花はとてもきれいですが、僕がときどき踏むので……。
「コラ!何しよん」とポコンとメンサーブ純子はんが叩きます。唯一鉢に咲く「パンジー」はドカーとあれば奇麗でしょうが、数鉢しかありませんので、「こんな花咲いてたん?」という感じなんだなあー。ここ大阪狭山には市庁舎のあるメインロード「さやか通り」には「はなみづき」の花が満開で近所のお庭にも一杯咲いてる。春満開、阪神タイガースも絶好調でんな!!?よろしおまんな!うれしいでんな!よかったでんな!いつまで…?ところで話は変りますが………。
 チベットの僕の仲間達は西ネパールのフムラや、ムグ、トルボ、ムスタン地方などでは牧羊犬として、放牧されてる羊やヤクを追い回すお仕事なんかしてて、空気の薄い大地を走り廻っています。マナン、サマ、ランタン、ロールワリン、クーンブ地方のターメに住むアンプルバの故郷などでは、ゴンパやお家の番犬として「ウウウウ・・・」と吠えて、噛みつくだけがお仕事と勘違いしてるヤツなんかがいますけど。
 バラサーブはこれら各地へ出かけては僕の仲間を何人、いや何頭かを大都会のカトマンズへ連れ帰っては大阪狭山のお家へ連れて帰る計画をこれまでに何度か試みたらしいが、うまく行かなかって友人知人に預け?ては心痛の思いで帰りました。僕が何度目かの連れ帰り作戦第1号成功のお犬さんなのです。
 さて、先人の西チベット探険家や学者の人達は、僕のようなチベツト犬と同行したり、連れて帰ったりしたか?タイフーンは調べてみたようです。Sven Hedin "TRANS HIMALAYA" Vol.II London,1909 を読みますとツアンポの源流、クビ・ツァンポへ1907年7月13日に訪れたのです。以前にはナイン・シンが1865年に、1904年にライダーがマリウム峠まで遡ったのをヘディンは知っていて、1864年にウェイバーとドラモント、スミス、ハドソンらがチェマユンドン・チューに入ったこと。ランドーが1897年、マリユン峠を越えて、ここをランドー渓谷と名付けていたのを知っていたが、彼等の行動には疑問を持っていました。2度目のチベット探険は西チベットへとかき立てられての冬の旅でありました。チベットの防御体制を出し抜こうとしたが失敗して、サトレジ河谷を下りグゲ王国の遺跡を通ったのです。そして一緒に連れた犬に対する心からの愛情を別にすれば、仲間とは別に孤独な旅でもありました。そして旅の終りには、仲間との分かれより犬との別れの方が辛かった。この最後の旅の愛犬の名前は「ブラウン・パビー」という野良犬で、彼は嵐の中に姿を隠したのです。どんなに辛い思いをしたか、毎日テントに戻ってくる妄想に悩まされました。それでも、あと2匹の犬がいました。
 彼は1908年の8月に、この記念写真を撮ったシブキ峠で威武堂々とした姿をして・・・。以前の探険が英国王立地理学会、トーマス・ホールディ、ローリングらの反論、ロングスタッフらによる「トランスヒマラヤ」反論などが起こる前、ヤングハズバンド率いる英陸軍兵士による聖都侵犯、チベット隔離政策を批判した彼はレーからチヤンタン高原に入ったのです。インダス川、プラマプトラ川の水源に最初に進入した最初の白人」と勝手なことを書いたり、マナサロワールへ西行する流れ、タゲ・ツアンポがサトレジ川源泉と呼んだりしましたが、ここを慧海師が通っていたこと。そしてずっと以前にウエィバー達一行も通っていたことを…。この分水嶺タプシ峠との関連に気づかなかったとは…?。
が、色々あったこの旅を終えて強がりの態度で写真を撮ったのがこの写真なのです。
そう!ヘディンの前列に『僕の先祖のお犬さまが…いるでしょう』。これおじいさんのずーつと前々のおじいさんのチベット犬さん達なのです。

 David Snellgrove and Hugh Richadson"A Cultural History of Tbet"London and New york 1968.奥山直司訳は1980年の増補版の全訳「チベット文化史」春秋社1998年この翻訳本が出て、スネルグローブの面白さと凄さが倍増したのとさすがチベット学者だと想いが増したのです。奥山さんもなかなかの学者で、色々教えて頂く機会があって、チベット密教の門外漢の僕にも、もう少しは勉強せんとアカンと刺激を最近になつて与えていただきました。この本の口絵写真に、LIMIちゃんの親戚がツァンパのおばさんと写ってる。スネルグローブもトルボ、ムスタン、マナンの旅 ”Himalayan Pilgrimage,a Study of Tibetan religion by a traveller through western Nepal" London. 翻訳:吉永定雄「ヒマラヤ巡礼」白水社1975 再版1981には書かれていないけど、確か僕の親戚をお国に持ち帰っているのです。口絵のキャプションのツァン州とあるのは、シガツェ辺りのことで、この辺りの人をツァンパという。僕の幼少を過ごしたリミの谷では、食事はツァンパ(ここでは主食のツァンパのこと)をたらふく食っていて、僕のお父さんもこれくらいあります。小牛ぐらいもあります。
でも、大阪狭山では一度バラサーブが僕のためだと言って「ツァンパ」を持ち帰って来ましたが、僕には食することが出来ませんでした。すっかり平均的文化犬になってしまいまして、またメンサーブ純子ママは僕の健康的な身体を考えて?アメリカ製のドックフードを一日300gと角切肉缶詰1缶を毎夜1度しか食べさせてくれないのです。食パンの耳が大好きで時々バラサーブが朝食ってるときに頂きますけど。本筋から離れてまんがな…。
 チベット美術史研究を初めて本格的に開始したのはイタリア人のトゥィチ教授で、収集されたものも素晴らしいものが多いらしいが…、彼を尊敬するスネルグローブはムスタンのツーアランのゴンパで僕の親戚に吠えられて恐怖の調査をしたし、トロンパスを超えてマナンの下流のバンバという村でついて来た黒犬の子犬が村人に蹴られたのを可哀想に思い、手持ちの少ない食糧を与え、同行のシエルパからも文句に耐えて、やがて胸の白毛が心臓に似ていることから「ニンカール:白い心」とみんなが呼ぶようになった。とあります。
 さて、もう一冊。Arnold Heim und August Gansser "Thron der Gotter Erlebnisse der ersten Sdweizerischen Himalaya-Expediton.Zurich/Leipzig,Morgarten.1938 "The Throne of the God,An account of the first Swiss Expedition to the Himalayas"
Translated into English by Eden and Cedar Paul,London.1939. 極西ネパールのナンパ峰やアピ峰を見て、
テンカール・バンジャン周辺や登山調査してリプレグを1936年7月7日グルラ・マンダータ(ナムナニ)を正面に見て越え、マサナロワールとカイラス巡礼をしました。報告書には素晴らしい東部ガルワールの山々のパノラマスケッチ、写真と地図が付録にありますね。さすが学者さんの報告書です。
ガンサーが地質学者として書にした"Geology of the Himalaya"volume in the regional Geology series:Edited by L..de Sitter,London/New York/Sydney 1964.の書は地質学のバイブル書とでも言われるだけあって素晴らしいスケットと写真の数々…・。と僕の親戚がきちんと写ってるんだなあ。
本文省略…。頁不足で、またつづく……。忘れんかったらやけどオー。
ちなみに日本人でチベット犬を持ち帰った人はいるんだなあー。
熊本の馬場博行君が15年前の冬に、東京の故小松幸三君も冬のデナリで亡くなる数年前に…。彼等は子犬を機内に以前は持ち込んでも良かったけどタイフーンの時は違ったのであります。(この項は、また今度に…)
(参考文献)
Charles Allen "A mountain in Tibet"The Search for Mount Kailas and the Source of the Great rivers of India.London,1982
翻訳本:宮持優「チベットの山」カイラス山とインド大河の源流を探る:未来社 1988


飛んでまっせえー。宇宙遊泳でっせえー。お外でジャンプする時は
1メートル以上は飛べますねんけど、こんな狭い所で「飛べ!」いう
ものですから、この程度しか飛べまへん。真上にスーット上がる!
輪廻転生、{六道輪廻}の六道を知るのだぞう!
とタイフーンは右手にビールのコップを持ちつつ言ったが…?
 

おっさん何に難しいこと言うとんじゃー。自分だけビール呑んで・・・。
アホなこと言わんとサッサと「お散歩」行かなアキマへん。
「噛んだろか!おっさん!」「ポコン!」
「ア!イタぁああ!マチガいでんがな」「ジョウーダンでんがな」
 

「じゅうにひとえ」のお花は雑草みたいに強よよよよおい花で僕が
シヨンベンしても、踏みつけても咲きまんねんでえ。
 

↑画像をクリックして頂くと、拡大版でご覧頂けます。

S.
ヘディンの「トランス・ヒマラヤ」原書より…。
ヘディンの着ているチベット服は夏用のもの。表生地は木綿で、
内側に羊の毛を使っている。懐には木製器とツアンパが…。

 
D
.スネルグローブとH.リチャードソン「チベット文化史」奥山さん訳より
ツァンパをうんと食べる。これぐらいに肥えさせないとチベットでは
ダメなのだ。貫禄というものが…、チョット小さめのおばさんですけど…?
でも、こんなの沢山いるよね!


A.ガンサー英語訳、ドイツ語原書「神々の御座:第一回スイスヒマラヤ登山隊報告」より

まったく僕と同じの家系なんです。目の上に茶色のふたつの斑点、垂れ耳と太い足。
なつかしいなあー。僕の田舎の臭いがする。下の山は1936年10月5日、立教大山岳部
ナンダコット登山隊が成功したお山。ガンサー達二人の地質学者は同年春にこの山を見て、
西チベットに入り、カイラスとマナサロワールを探り、二度目はパルチャ・ドゥー峠からサトレジ
川まで往復して、インド当局に捕まり護送途中に立教大登山隊と出合ったんだとォ……。