LIMI's Growth Diary(1st,Apr,2001 No.7)

Charles Allen"A mountain in Tibet"にThomas W.Webberが(彼らの探検の 実施したのは1864年の夏で、この冒険記は50年後であつた) ”The Forests of Upper India"である。 アレンの推理は同行のスミスとドラモンド。ウエーバとホジソンら4人組は 今日、衛星写真のおかげで、現実的なコースを図示出来る。としている。 残念ながら{チベツトの山:宮持優訳、未来社}にはこの地図がない。
アレンの英文本にはP212にその地図が載っていて、リミ谷からTakche Kharkaに出て、 東の無名谷に入り、氷河を横切り5200m程の峠らしきところへ出て、北東の 谷をドザム・コーラへ横断。
チャンラ・バンジャンを越えてChemayungdung Chhu と出た、とする予想コースが画かれている・・・・?。
ウエバーとホジソンは、ツアンポ川とサトレジ川の分水嶺からカイラスを見 てから6775mのチュマユンドン山(一行はそれをリミと聞いた)・・・・・・。 ともある。

ここで私、LIMIちゃん登場! このリミという山と私の名前はそれ相応の意味がありまして、バラサーブは チャンラという山から見えたツアンポ川源流の二大支流、チュマュンドゥン川とクビ ・ ツアンポ川の周辺の最高峰のチュマユンドン峰(リミ山)。を見出したんでありま す。
それに・・・・。
2000年夏に訪れた私のふるさとの谷、リミ谷とダブつて私を命名したのであり ます。とても深い理由があるんですなあー。ほんまかいな? バラサーブはスエン・ヘデインとかいうスウエーデン人をとても信望していて、 おつさんも「ナチ党員ちゃうんかいな」というくらい毎日彼の本や記録や画いたスケツチ と地図をこまめに見てます。吉永はんという「先輩」も相当な入れ込み方で、 まあ「アホでんな、この二人…?」と思うほどです。

リミの谷でこの二人のおっさんらのテントに繋がれた時は、びつくりしました。 歯のないおっさんと痔のおっさんは夜な夜な地図を広げて「……▲○X」とコソコソ話ます。「おつさんらエエかげんにせえよ」「早よ寝てんかいな」 それでも無視して・・・・・・。
夜中に二人は起き出して「コ-ヒー造りまひょかあ」「おおにし!コ-ヒー造れ!」 とか「ミルクコ-ヒーにしまひょか」とか言いつつゴソゴソするのです。それも毎夜でんがな。

ま・まさか!この状態が今だに続くとは・・・・・・・。 ま・まさか!日本に連れてこられるとは・・・・・。波乱万丈、涙の物語でんがな。 案の定、大阪狭山のクソ寒い寒風吹く真冬にも、桜寒の真夜中最近も・・・・。 真夜中といわず、いつ何時起き出すか解りまへん?わがままバラサーブは! 「じゃかましい!早よ寝んかいな!おっさん」 「寝られへんやんか・・・・」「クソー・・・・」 で、ストレス溜まってつい・・・この通り!

「こ・こ・・・・・こいつベツト潰しよつた!!!!」
「おおおおお・・・・い!ママ!ベツト潰しよつたがな」
「それが、どうしたん?」
「形あるのもは壊れるのだバアーカー!」
「なんぼなんでも1週間で壊さんでもええやないか」
「知らんがな!勝ってに破れたんやがな。この安もんベッド」
「じゃじゃーん!私のベツト、壊れたもんね!」
「ベツトの1個、壊れたからゆうてじゃかましいいうな!」
「これでもくらえ・…!」「ガブリ!」
「ギャーあああああ・・・・・」
「噛みよんねん。たーすーけーてえー」
「それにしても臭い足じゃのう・・・・」
「ええーい!もう一発噛んだろ」

(付録)
西ネパール・リミ谷のチベツト仏教と寺院伝承と極西北ネパールの人々の近代化の波

1963年、安藤久雄隊長と当時学生を含む若者6人の北海道大学西ネパール登山隊がこの地を始めて世に紹介した。その記録 HIMALAYA EXPEDITION OF A.A.C.H.1963は7000mと当時信じられていた山への長いアプローチとナラカンカールを捜し求めて歩いたり、中国に一時監禁されたり…・。それ以前の記録は1863年のTomas W.Webberの書いたモForestof Upper Indiaモ、ヤクの狩猟を目的にナラカンカール周辺の峠に立ち、横断してスミスとドラモンドの二人はヘデインより40年前にプラマプトラ河の源流辿り着いた記録。それと最近ではあるが1993年に発行された、Stan Armington & Sushil Upadhyay: “Humla to Mt.Kailas”Copyright 1993 Bangkokのガイドブツクの三つの記録がある。

 これらと西ネパールの探検、冒険の旅の記録は限りなく多くあって有名なものだけでも 18世紀以前は省略するとして、ハーゼイ、ウェーバーとスミス、ドラモンド達、ナイン・シンと従兄弟達、ランドー、河口慧海師、ヘデイン、ライダー、ローリング、スタイン、ロングスタツフ、長谷川伝次郎、シェーリングなどなどが出てくる。近年ではトィツチ博士の学術報告など素晴らしいものもある。ティッヒーやガンサー地質学の本、また何人かは、専門的技術と印刷技術で美しい地図を作成した人達もいた。

 ずーっと最近では、後藤ふたばの旅行記と旅行人ウルトラガイド「西チベツト」:高木辛哉著もなかなか面 白い好書の案内書などがある。
 
 では、リミ谷の三つの村のゴンパを検証してみよう。

 
この三つの村はタクチエ・コーラと呼ばれる川の右岸にあつて、北へ急谷が入り込んでいる。リミ谷の中心的な村がハリジェ村で、人口200人で戸数40。ちなみに上流のザン村は人口200人弱で戸数55。ナラカンカール・ハイエスト偵察のBHとなったティル村は人口200人程で戸数40ぐらい。この二つの村にも小さいながらもゴンパはある。
 
 リミ谷中心のハリジェ村には立派なゴンパがあり、ゴンパの外壁の紅壁と同じ色のマニ石が上流のザン村へ約500m以上並んでいて、村の入り口のカンニへと続いている。
 
  ハリジエ村のゴンパはフムラカルナリ川の西チベツトの中国政府の重要基地とこの辺りの中心地、プラン(タクラコツト)へのネパール側、ヒルサと中国側イミグレのあるシエルから延びる自動道を15分も走ったところ、コジャ(KHACHAYA・Khacya)中国語表記では科加:(Korqag)N30 11 44 E81 16 05 3650mという集落にまったく同じと思われるゴンパがある。北東方角、ナラカンカール・ハイエスト6422mの東南の氷河Pulu Gleaier への谷 Luphu Khola。中国語表記(魯普:Puru Gully)何故か発音が逆になってる?谷の右岸にある。以前はここの集落から道路があつてジープが走っていたが、今はネパール国境のシエー集落に道路が通 じて中国側イミグレからランクルに乗れば1時間ほどでプランに達せられる。この村にネパールと現在国境に接するチベツト側の最後のゴンパがある。このゴンパはサキャパ(ンゴンパ)で約1000年前のグゲ王国時代にイェシェ・ウーによって建立された。トリン、ニャルマと並ぶリンチェン・サンボの三大寺であつた。
 
  14世紀になるとラカン・チェンポが建てられて、当初のカダムパはこの頃からサキャパ・(ンゴンパ)となつた。同時に建立された、もうひとつの寺院ジョカンの方はラダツクの ディグンパと良く似たゴンパで忿怒尊像、ギャルツェン・シ(四天王)が奉られている。 が、両者とも中国文化革命により、ことごとく破壊されてしまった。が、しかし現在復興中である。拝殿に入ると中央にチャンバ腰掛像は奉られいる。そして道路に面 した外壁 (紅壁)には白地で「オンマニペメフム」と書かれていて、私達がリミ谷を訪れた夏に 貫田、金沢夫妻がシミコツトからカイラスへ歩いた。その時のコジャ・ゴンパの写 真2枚 を……。まったくハリジェ村のゴンパと紅壁にかかれた「オンマニペメフム」の文字、拝殿屋根の飾り、鴟尾(しび)もやや貧弱ながら文革の被害から再建された。
 
  科迦寺(KorchagMonastery)拝観入場券の半券に正面拝殿屋根の飾り、鴟尾(しび)が黄金色に飾られている。  また文革の被害を避けるために各ゴンパの仏像、仏具がネパール側へ避難させたという 話も金沢夫妻からの情報もチベツト人の知恵を鑑みることが出来る。 が、しかし残念ながらのちに、この数座の仏像、仏具の避難が多くの行方不明仏を出してしまって、リミ谷のゴンパの仏像の行方不明をも煽った。最近までこのハリジェ・ゴンパは外国人の入場を拒み、撮影禁止処置などもとられていた。
 
  仏像の海外流出の原因となつたのは、やはりシミコツトとプラン間のトレツキングが出来るようになったのと、西チベツトへの開放が大きいように思う。外国人が沢山この地を 訪れ、カイラス詣での往路を(この場合は余りリミ谷に訪れてからプランへ抜ける旅行者は少ないが…)帰路を横道にそれて、リミの谷を経由してシミコットへ抜ける人が現れて…・、現地の人達から仏像、仏具を購入する人が現れたし、この谷の何人かはカトマンズで、時計商、宝石商などを営み、またネパール側で調達した日用品がカトマンズ、ネパールガンジ経由空路シミコットへ沢山の日用品、食糧などが入りだしたのは、食糧飢饉のNGOによる食糧空輸、大型ロシアンヘリによる大量 輸送可能とプランへの依存度が益々強くなりだし、容易に小さな仏像、仏具などが持ち出されて密売されたためである。
 
  リミ谷の人々は僅か2日で西チベツトの要所プランに出れる現在、この谷の人達の生活 基盤と文化はソーラーバツテリー、ストーブ、日用品の全てが中国製であり、食生活もその依存度はネパールを離れ中国化してゆくのだろうか?テレビはもちろん車社会のプラン 周辺の近代化の波が極西北ネパールの人達をどう変えてしまうのだろうか?


コジャ(科迦・Khachar)Korqag、Koraag Lamaseryとも
中国科学院1997by the LIGG,CAS.map 1:100000には表記されている。
某地図では中国名で科加。ネパール語発音でKhacya。
カチャル、コルジャ、コルチャク、コルジャナート、コジャルナート、コージナートなどでも呼ばれている。
コンパの紅壁に「オンマニペメフム」と大きく浮き彫りされていて、Haljeのゴンパと同じ・・・・・。
拝殿の正面に廻ると・・・・・。屋根の飾り、鴟尾(しび)が黄金に輝いている。
これも全く同じ飾り付けがしてあるが、Halje Gompaの拝殿正面 は昔のままで、木造である。
グゲ王朝時代の雰囲気があり、とても文革で破壊され再建されたと思えない。
このゴンパへ拝観料を払って・・・・。撮影料を払って・・・・。
金沢夫妻は厳粛な読経のゴンパに入った。その時のチケツトだつて。 (写真提供:金沢健)